過去の人生を振り返り、うつ病になる種を拾う
INDEX
就職して海外へ(仕事量とプレッシャーでストレスがたまり続ける)
家庭をもって/子供の将来を考えて(支えなければならない強迫観念と重圧)
1970年代に関東にて産まれる。
教育及び躾けの厳しい家に育つ。
父もトップの大学に出ていたし、大きな会社の重役だというプライドも強く持っていた。
母は国語の教員で、曲がったことが嫌いだった。
兄弟姉妹は私を入れて四人で、祖父祖母もいたから、合計8人の大家族。
家は広かったため、大きくなったら個室を割り当てられたが、小さい頃は弟と一緒に住んでいた。
その部屋では小さいながらも、弟の面倒を見なくてはならず、面倒見が良くなってしまった。
ひしひしと「兄」としての役割を親からプレッシャーとして感じていたと思います。
後年、「頼られる(頼られやすい)」「能力以上に負担を抱えすぎる」のはこのころだった。
頼られたら断ることができない、きちんと与えられた仕事をこなしてしまう性格はこのころからありました。
子供だったから、もっと楽しみたい気持もあったが、母から弟のおもりをきつく言われていたので、なかなか遊べなかった。
羽目を外すこともあったけれど、親に抑えつけられて、時には殴られたり、はたかれたりした。
親に逆らえなかった。
いつも親の目を気にして生きるようにもなるのは自然だった。
そのうち習い事も山のようにするようになった。
水泳、公文式、英会話、書道、ボーイスカウトなど。
自由にのびのびと遊びたいのを抑え続けていたと思う。
楽しく放課後遊ぶ友達がうらやましかった。
自分も遊びたい気持ちを必死で押し殺して、習い事に通った。
いつも楽しむこと、やりたいことを制限して生きてきた。
それが自己鍛錬になると教えられてきたし、そうだと自分でも思っていた。
どうやら思う存分に楽しむことに罪悪感を感じていたと思う。
両親の教育の影響が強かったのだろう。
長男の兄貴もかなり厳しく子供心を抑えつけられてきた。
後年、兄貴は私ほどではないが、抑うつ状態に苦しんでいた。
幼児期・小学生・中学生の頃の環境は非常にうつ病にとって大きいと思います。
みなさんのうつ病のルーツはどんなでしたか?
分析して整理すると見えてくるものが必ずあります。
私の分析を参考にしてください。
家族自体、躁うつ気質で、落差がジェットコースターのようだった。
父も当然ふさぎ込むことがあったし、母もかなり感情の起伏が激しかった。
そんな不安定な心の家族だった。
そのくせ、社会的に立派に生きること、落伍者は許さない雰囲気だったから、家名を汚す(大げさな表現ではなかった)ことはないように、気をつけていた。
そんな家へのプライドは私も持っていたと思う(すりこまれた?)
遊びを知らないつまらない人間だったと思うし、友達からもちょっとつきあいにくいと思われていた。
(今では反動で楽しむことを優先にしている。それで仕事もはかどるし、人間関係も良くなるんだからなんだかなぁ、と思う今日この頃だ)
ただし、過去のことを受け入れて、後悔はしないようにしている。
ああやっておけばよかった、こうしておけばよかった、あんな育て方をされなくてもよかったのに、などは、うつ病に陥らせる原因でもある。
分析してなおかつ、受け入れる、もしくは関係ないぐらいまで割り切る。
そうやれた方が良かったと思う。
自分で言うのも何だが、負けん気が強くて頑張ることができる子供だった。
常に自分にハードルを設定して生きてきた。
予習、復習はちゃんとやった。(やらないと父に怒られるし、テストの結果に響くから。また日課になるとやらない方が気持ち悪い)。
母も私たち兄弟に、教員らしく、わからないところをちゃんと教えてくれた。
時には厳しくスパルタ式を課された。だけど、成績はそのおかげでよかった。
いったい母に教えられた学生はどういう気持ちで母のことを考えていたのだろうか。
ちゃんと私のことを考えてくれていると両親について感じていたが、一方で足かせにもなっていることにまだ自覚していたわけではない。
教育に熱心な家の事情で、テスト成績はがいつも兄弟みんなトップクラスということにつながったが、遊びや楽しむことを奪ったことでもある。
楽しみたい素直な感情の犠牲でのトップではあんまり意味がないと今では思う。
ただし、それで成績が出ない方がますます悲惨だと思うが。
兄弟がみなそれなりに優秀だったのも、すごいプレッシャーだった。
自分一人だけ落ちこぼれるわけにはいかないからだ。
それはそのまま私の兄や弟にも言えること。
脱落は許されない、ドロップアウトは殺人にも近い罪なことだと感じていた。
なんて余裕のない人生だったのだろう。
いつか限界が来るのもわかる。
何かを犠牲にして手に入れた成果でも、それが絶対的真実だと親に思いこまされていた。
しかも一番肝心な「生きる実感と楽しさ」というものを無視され、抑えつけられていたから、後年うつ病に陥る下地はこのころ熟成されていたんだろう。
いまうつ病が重くない人は、過去の生い立ちを振り返ってみるといいかもしれない。
楽しむことを知らないで生きていたら、これから存分に楽しむことを目標して生きた方がいいと思う。
鉢で育てられる植物に肥料が必要なように、いろいろと制限されて育ってきた人(鉢植えの植物と同じだ)には、「楽しさ」という心の肥料が必要だ。
頑張りやに育てられたが、融通が利かない子供にもなった。
よく生真面目といわれた。
考え方に柔らかさがなく、意固地だった。
問題が起きたときの対処方法を柔軟に対応できず、問題そのものよりも大きな心理的重圧を背負い込んだ。
まわりにちゃらんぽらんがいると、不思議に思った。
あんな生き方で大人になってから、絶対不幸になると軽蔑していた。
自分の生き方、親の教育が後年大きな成果を上げるんだと思っていた(自分をそれで慰めていた)。
両親とも、こうあらねばならぬ、こうでなくはてならぬ、考えを持っていたから、私も輪をかけてそれが強くなってしまった。
だから、ストレスが多くなって対処不可能な袋小路にはまると、うつ病になるしかなかったんだろう。
ちゃらんぽらんに生きていた人のことを、内心うらやましがっていたと思う。
ああ生きることができたらと無意識で感じていたに違いない。
しかし余裕のない生き方をしていると、違う生き方の人間を許せなくなる。
学校では、ずっとクラスの学級委員をやっていたし、担任の受けが良かった。
生徒会長にも立候補した(落選してショックを受けた。挫折感は相当だった)
しかし、「もっと楽しむことを覚えるといい」と担任に評価されていたのを読んで、ショックを受けた。
今までの生き方を否定されたような気持ちだった。
窮屈ながらも、それなりに充実感はあったし、劣等感を感じていなかった(もしくは劣等感を見ないようにしていた)。
頑張ってきたのも、必死で劣等感を持たないように、それだけのためだったのかもしれない。
私の生き方のむなしさをどこかで感じて生きていたのだろう、無意識は騙せないのだから。
余裕があるべきはずの人生なのに、自分で(親の教育も含めて)勝手に綱渡りの人生に変えてしまっていた。
だから、うつ病になりやすかったのだ。
うつ病は、ある程度は強いところがあるから、けっこう優秀な人がなってしまうが、糸が切れたものすごく脆くなると思う。
案外、余裕のない生き方をせざるを得なかったからだと思う。
こうやって書いていくと、改めて、何かストレスが降りかかったら、うつ病になって然るべきだとつくづく思う。
(この作業がうつ病回復の第一歩として重要なのだ)
綱渡り、崖っぷちの人生でも、調子がのっている躁状態(ハイ)だったなら、問題なかった。
しかし、うつ病に振り子が振られたときは、途端に逃げ場もなくなる。
なんとか学生時代はしのげていたというべきだろう。
目標に向かって猛烈に頑張る自分を気に入っていたこともある。
将来、立派になって、仕事でも大きなことを成し遂げてやるという夢があった。
余裕の無さが私の人生(親の人生も)の最重要キーワードだ。
上に「綱渡り」「崖っぷち」と書いたけれど、他人から見れば、全然経済的にも状況的にも余裕があっただろう。
しかし、私や親の生き方や考え方が心理的に綱渡りを強いてしまった。
人生そんなにうまくいくものじゃない。失敗や挫折が数多く待ちかまえている。
障害がない人間なんていない。必ず問題に直面してしまう。
(今はうまくいくものじゃないということをしっかり受け止めているから、あわてないし、落ち込まないし、状況に余裕を持って対応でいるようになったかな)
そんな当たり前に起こりうる逆境やストレスにさらされたときに、小さい頃からの余裕の無さで潰れてしまった。
それ以外の生き方を知らなかった悲劇だった。
思考が硬直すると、心がぽっきりと折れてしまうのだ
猛烈に勉強して、高校や大学でも成績は優秀だった。
勉強は苦ではなかった。
ただ気分の波はこのころから確かにあった。
当時は気合いで乗り越えられていたし、調子がいい時は何も考えずに済んだから。
兄弟がみんな頑張るから、頑張らざるを得ない。絶対負けない気持でいた。
でも、ふと疲れている自分に気づくことがあった。
そんなに引きずらずにすんだから、気に病むことはなかったが。
いわば、うつ病の兆候だったと思う。
海外志向が強く、アメリカやヨーロッパの第一線で己の能力を発揮して仕事がしたかった。
気分に浮き沈みがあったけれど、全体的にいい学生生活を送れたと思う。
それ単体という意味では。
だけど、後のうつ病の時代との関連性を考えると、もっとうまく柔軟に生きることができたはず。
何でもできそうな気分になっていたとき、自分の生き方が悪いなんて思いもしない。
だから、自分の生き方への反省が足りなかったのだろう。
この先、その私のままでやりつづけたら、限界が早く来ることを。
考え方に柔軟性がなかったからしょうがないかもしれない。
学生時代は親の援助で生活しているのだから、親に逆らうと生きていけない恐怖感があった。
精神的に逆らえないし、経済的にも支配されていたからどうしようもない。
もし私がもっと冒険したり、親の精神的支配下から離れることができれば、仕事以外に趣味を広げることができたし、親の目を気にして生きることもなかったはずだ。
だから、本当に生い立ちというものは恐ろしい。
クラスの学級委員をやったり、みなから頼れる存在だったが、オーバースペック気味だっただろう。
高性能CPUを無理矢理乗せたにもかかわらず、冷却ファンの性能が不十分だった。
俺は俺だという気持ちがあったが、後年、人からの評価や悪口がすごく怖くなってしまったのを考えると大きな違いだった。
うつ病はあらゆることをマイナス思考にとらえてしまう。
マイナス思考がもっと大きな病的な考え(自殺願望や極度のうつ状態)を運んできてきつかったが、当時はまだ私の心はもっていた。
経年劣化の金属疲労が始まっていたのかもしれないが。
何でも背負い込み、身動きがとれないときもたびたびあった。
なんでも能力以上のものを抱えすぎるのは悪い癖だった。
学生時代はなあなあにできたが(でも気分が悪かった、完璧にやりたかったから)、社会人になってから責任ある仕事を任せられるようになったら、そうはいかない。
性格上、人から頼られると頑張ってしまう、それがますます人から頼られ(もしくは要領よく利用され)、ますますがんじがらめだった。
そうだ、私には要領の良さが足りなかった。
世の中でのし上がっていく奴はみんな要領が良くしたたかだ、
したたかさなんて私も兄弟も持っていない。
みな愚直でまっすぐな人間ばっかりだ。
父も母も要領なんかないし、したたかじゃない。
さて、就職活動は前々から完璧に準備して挑んだと思う。
目標は海外で仕事ができる会社だ。
英語や第二外国語のドイツ語の勉強を一生懸命した。
家族に顔向けができる仕事にぜひとも就きたかった。
そして希望の会社に入れ、望みの海外生活へ。
ちょうど面接の時には、強い意気込みがあった。
それを面接官や上司に評価されたと思う。
やる気と自信が面接の時の一番重要視される要素だ。
誰も私の心の奥に潜んでいるもろさなんて気づきもしなかった。
気づかれていたら、逆に幸せだったかもしれない。
上司からも信用され、厄介な、言葉を変えればやり甲斐のある仕事を任された。
私が強い人間だと装わなければ、あんなに仕事とストレスと責任を抱え込むことはなかっただろうに。
日本で仕事をしていたときは、残業も最初はやる気を持ってやっていた。
頑張りすぎて、周りと不協和音が出ることもあった。
職場では人間関係も保たなくてはいけないし、仕事だけでいいわけではないが、はやく出世して海外で仕事をすることがあったから気に留めなかった。
仕事ができない奴は落ちこぼれればいい、勝手に言っていろと思っていたから。
上司にも認められて、前々から希望を出していた海外勤務も現実味を帯びてきた。
(表向き)とても充実した社会人ライフだった。
働いていた職場はかなり過酷で、うつ病など心を病んだりノイローゼになって休職や辞める人間も多かった。
まさか後年私がうつ病になるとは思いもかけなかった。
弱いからノイローゼ(うつ病を含む)になると思っていた。
だから、世間のうつ病に対する偏見を私はよく理解できる。そう感じていたのだから。
自分のことをやるだけだと思っていたから、会社のうつ病休職退職者について深く考えることはなかったけれど。
うつ病は弱いからなるのではなくて、精神的に中途半端に強いからなるのが正解だと思います。
もっと正確に言うと、強弱の尺度ではなく「もろい」からなる。
戦車の装甲にしても、ヤスリで簡単に削れる柔らかい鉄を使っている方が、防御力が強いそうです。
ヤスリでは決して削れない硬い鉄の方が、ある程度衝撃を受けたときに一気に崩壊する。
うつ病はそんな人がなるんだと思う。
私もぽっきりと心が折れました。
柔軟性があればうつ病にならず、ひどい場合でもストレス性障害、気分変調障害、適応障害と言ったレベルだっただろう。
思い返すと、職場で休職したり辞める人は、そんな人間ばっかりだったかな。
私も誰よりもそんな人間だったわけだが。
しかし、残酷なことに会社は、そういう頑張れる人間を好む。
そして酷使して、使い物にならないとわかると、厄介に思う。
資本主義もいきすぎるとうつ病を増産するだけだと思う。
私の職場は、初期の頃からカウンセリングルームがあったけれど、そこに相談すると、弱い人間とレッテルを貼られそうで見向きもしなかった。
秘密厳守と言うけれど、会社に筒抜けかもしれないという不信もあった。
今思うと、己を弱い人間だと知っている人間こそ強いのかもしれない。
会社に知られたら(秘密厳守で外に漏れることはないというが、心配だった)、出世は遅れるし、海外に行けなくなる。
徐々にストレスがたまっていった時点で、相談していれば、未然に防げたかもしれない。
だけど、どちらにしても当時の私にはカウンセリングを受けることはなかったと思う。
ストレスも不満も我慢して抑圧することで切り抜けていたから。
それしか脳みそが働かなかったとも言える。
なんて柔軟性のない脳みそになってしまっていたのだろう?
それもこれも私の生い立ちが原因だ。
そんなこんなで海外勤務が決まった。達成感があった。認められた感じがしたし、嬉しかった。
それ以前に、平均より早い年で交際してた女性を結婚した。
仕事での負担増と家庭と子供、そして海外生活の環境変化と孤独と責任倍増で、私の心は悲鳴を上げるのはそう遠くはなかった。
徐々にうつ病が忍び寄ってきたのであるが、出世に結婚と充実していたように思えていたから、人生一寸先は闇である。
妻をめとって、すぐ子供が生まれた。
第一子誕生に身も引き締まった。
立派に育てよう。父のようにはならないぞと誓った。
勉強はさせるがもうちょっと柔軟にいきたいと思っていた。
しかし、
うつ病にはまっていたときは、子供の存在に一番心苦しんだ。
この子をいい方向に導かなければいけない。
果たして私で大丈夫だろうか?
マイナス思考に陥ると、どんなことでも負担に感じてしまう。
父は威厳を持って、それを崩すことなく、私たち兄弟を育て上げた。
果たして、私は子供に対して、威厳を示せるのか、手本となれるのか?
私自身、親とは感情的な触れ合いをせずに育ったから困惑した。
感情をあまり出さずに育ったから、子供への接し方には戸惑った。
兄弟みんな子供への接し方は下手だと思う。
硬い硬い一家ばかりだ。
家庭を持って子供が生まれた責任感に身も引き締まるとともに、苦しさを覚えはじめた。
妻のことは好きだったし、子供も本当にかわいい。
昔の私なら将来の不安を考えずに生きていたが、我が家庭のこととなると、突っ走っていくわけにもいかない。
このことについて考える時間が長くなった。
思えば、責任感が強かったから、仕事、結婚生活、子育て、そして海外生活を同時に送ることはいくら何でも無謀だったと思う。
思考が硬直していた私だけに、受け流すこともできず、要領よく仕事することもできず、真っ正面から難題を受け止めようとした。
父のようにはなりたくなかったけれど、方法がわからない。
誰もお手本がいない。
間違った方向にだけは、子供は育てたくない決意をしている自分に気づいたが、それは全く父母も同じことを考えていたに違いない。
融通の利かない彼らなりの方法で子育てをしたのだろう。
母は教師だというのにのびのびと子育てができなかった(教師だからこそできなかった!)
彼らなりに不安で必死だったんだと思う。
家庭を持ってはじめて父母の不安を身に染みることができた。
うつ病で潰れかけたときは、子供の将来を考えるのが一番つらい!
子育てで失敗してはだめだという強迫観念も強かった。
私は仕事でも子育てでも失敗することへの恐怖が非常に強かった。
だから反動で頑張れたが、海外勤務と生活で、もう心が持たなくなってきた。
前のようには動けない自分に戸惑い、たくさん本を読んだ。
集中力が欠如してしまうことが多くなってきた。
精神修行もしようと考えた。
瞑想、座禅、滝行色々あるが、妻と一緒にヨガをはじめることにした。
仕事の責任とストレスも相当なものだったし、直接的な原因はそれだったけれど、子供を支えることができるのは自分しかいなかった。
妻は人に頼るタイプだったし、仕事を結婚してすぐやめた。
頼られると頑張るのが昔からの私の悪い癖だが、無意識で負担に感じてしまっていたと思う。
女性にも自立したタイプと男の世話になることしか考えないタイプがいるが、妻は後者だ。
それこそ私と結婚したのも、頼れる存在だったから(買いかぶりすぎだが、そう演じていた私の責任でもある)
実際私はそんなに強い人間じゃなかった。
柔軟性がないからポキっと折れやすかった。
家庭生活においても、うつ病になる種は蒔かれていたんだな思います。
ただ家庭生活だけではこうはならなかった。
たくさんの要因が重なってうつ病になったことは強調しておきます。
妻は割合おおらかな性質だったが、あることに対してはすごく神経質だった。
大らかさに惹かれていたこともあったけれど、のちの海外生活ではその大らかさはどんどん消えてしまった。
海外生活は妻も不慣れだし、国が変わるごとに、環境の激変に戸惑っていた。
私もそうだった。
それでも環境が変わることで、うつ病になる要因と向き合う時間がないため、まだ発症しなかった。
一番じっくり腰を落ち着けたアメリカでの生活で、完全にうつ病(アメリカでいう大うつ病 Major Depression)になってしまった。
あこがれの海外生活が決定打となってしまった。
子供も環境変化について行けず、妻もその問題で心労を抱えてしまった。
家族みんなが傷つき苦しむ生活が始まってしまった。